花ざかりの庭園にオレは立っていた。
いたるところまで丁寧に手入れされた花々は、まるで我先にと競うように咲き乱れている。ゼラニウム、カリチュニア、ガルバナ、インパチェンス、コリウス…。
けれども何かがおかしい。ガルバナの赤もコリウスの薄青も、風景そのものがハチミツを溶かしたような淡い金色に輝いて見える。
――…ここはいったい何処なのだろう?
どれほど思い出を辿ってみても、こんな天国のような場所をオレは知らない。でもなんだか懐かしくて泣きそうな気持ちになってくる。
ふいに子どもの笑い声が聞こえた。
まだ小さいのだろう。甲高くてとても無邪気で、楽しくてたまらないといった様子だ。
オレはその声を探して、つるバラをあしらったアーチをくぐり、奥へ続く園路を進んでいく。群生するミモザの中を抜けていくと視界がぱあっと開け、柔らかそうな芝生におおわれた広場に行きついた。
「まてー!」
小さな子どもが目の前を駆け抜けていく。4、5歳くらいだ。仕立ての良さそうな服を着て、屈託なく笑っている。
頭上に大きく手を広げて追いかけているのは、よくできた飛空艇のオモチャ。
「…ラン――…そんなに走ったら危ないわよ…」
優しげな女の人の声が聞こえた。その方向を見やると、日傘を差したドレス姿の女性が微笑んでいた。少し儚げな感じのする綺麗な人だった。
その隣りには丸眼鏡の男が寄り添っている。どこかで見たような気がして目をこらし、思わず息を飲みこんだ。
ドクター・シド。
ずいぶん若いようだけど、すぐに気づかなかった理由はそのせいじゃない。
ドラクロア研究所と大灯台で2回シドと対決した。正気なのか狂っているのか判らない表情とオレたちを哀れむような眼差し。出来の悪い生徒を諭すような自信にあふれた声をはっきりと思い出せる。
けれども、いま見ているシドはまるで別人だ。穏やかな顔に笑みを浮かべて、愛しげに走る子どもを眺めている。手にしたリモコンで飛空艇の操縦をしているらしい。
「ほらファムラン、急旋回だ」
ファムラン…?
シドの呼んだ名前に、駆けていく子どもへと目を戻す。その名は確かバルフレアの本名だ。この明るくはしゃいでいる子は――…
ふいに方向を変えた飛空艇がオレに向かって飛んできた。咄嗟には避けられず、両腕を上げて頭を庇う。しかし何も起こらなかった。
飛空艇はオレの身体を通り抜け、ミモザの上まで浮上する。追いかけていた子ども…ファムランであるバルフレアも、ためらうことなくオレの中を通りすぎてしまう。
それでオレは此処にいないんだと気づいた。
空とオモチャの飛空艇を見上げるヘーゼルグリーン。なんの哀しみも持たないその瞳にオレが映ることはない。
この場所は、オレが存在しちゃいけないバルフレアの世界なんだ。
「あっ…まてー」
飛空艇はまた方向を変えて飛んでいく。それを追いかけて走る小さな子を、父親と母親が満ち足りた眼差しで見つめている。
ありふれた家族の姿。
からかうように旋回する飛空艇に足をとられて、子どもは両手を広げたまま転んでしまう。起き上がろうともせず、そのままヒック…と喉を鳴らして泣きはじめた。
飛空艇はゆっくりと子どもの傍らに着陸し、柔らかな苦笑を浮かべた両親が歩み寄ってくる。父親は身体を丸めて泣く子を抱きあげ、なだめるように優しく背中を叩いた。
「まったく…ファムランはあいかわらず泣き虫だな」
「あら、判らないんですか?」
母親が白いハンカチを差し出して微笑む。
「貴方がすぐ来てくれるのを知っているから、甘えているんですよ。ねえファムラン」
その言葉に子どもは鼻の頭を真っ赤にした顔をあげて、えへ…と嬉しそうに笑った。
なんて幸せなんだろう――…オレはあふれてくる温かな感情に大きく息をついた。
花ざかりの庭の、ハチミツ色に輝く風景の中で、大好きな優しい両親に包まれて過ごす幸福。このままずっとここにいたい。何ひとつとして失いたくない。
幸せで…あまりにも幸せすぎて…胸が苦しくなる…。
******* 「おい、おいヴァン!」
揺り起こされて、オレはぼんやりと目を開いた。テーブルランプの淡い光に照らされ、心配そうに眉を寄せたバルフレアが覗きこんでいる。
「――…あれ?」
「あれじゃないだろ。まったく驚かせやがって」
バルフレアは呆れたように口元を歪め、ほっと息をついた。
「へんな声を出してると思ったら、寝ながら大泣きしてたんだぞ」
「大泣きって…?」
そう云われて自分の頬の手をやると、なるほど濡れている。どうしてオレは泣いているんだろう。
ふっとバルフレアの手がオレの手に重ねられた。視線をあげると、あやすようなキスを額に落とされる。
「どうした? 哀しい夢でも見たのか?」
「いや…少しも哀しくなんか……」
ないと云いかけて言葉を止めた。哀しくなんかない。むしろ幸せすぎる夢だった。
「ヴァン、どうした?」
「うん…なんか忘れちゃったみたいだ。思い出せないや」
「そうか。なら無理に思い出さなくていい」
バルフレアは額から目蓋、そして頬へとキスをして涙をぬぐってくれた。
あれはきっとバルフレアが見ていた夢だ。
こんな風に溶けあって眠るから、夢の中でも逢いたいと思ってしまうから、ずうずうしく入りこんでしまった。
泣きたくなるような懐かしさも、胸が苦しくなるほどの幸福も、すべてバルフレアの心からあふれた感情。オレのじゃない。
だったら、この流れた涙はいったい誰の涙なんだろう?
オレは答えを求める代わりに、バルフレアの首へと腕をまわして抱きしめた。
「…好きだよ」
「いまさら何云ってんだ」
ひそかな笑いを含んだ低音が耳元をかすめ、撫でるよりも優しく背中を叩かれる。まるで泣いている子をなだめるように。
「オレ…バルフレアが好きだ――…大好きだ…」
それだけをただ伝えたかった。
おわり (2006.05.24)
オマケ→