大気が この世界を 祝福している。


 澄んだ青色の空がどこまでも広がっていた。
 地平まで埋めつくす色とりどりの花々。やわらかな香りがゆるりとした眠気を誘う。降りそそぐ陽光は一片の翳りもなく、時はたおやかに流れゆく。
 何処からか聴こえる鳥たちのさえずりに、傍らにいる少女のあどけないハミングが重なる。
 その声は耳に心地よく、うっとりと目を細めた。そうして少女の横顔へと視線を向ける。
 少女は花を編んでいた。
 薄紅の唇に浮かぶ微笑み。伏せ目がちの長い睫毛が、なめらかな頬に淡い影を落としている。そよと吹く風に金糸雀色の髪が揺れた。
 少女を形作るすべてを愛しく見つめながら、私は暗い洞窟にいるであろう2人を思う。

 他愛ない伝説を少年は信じた。
 ヤクト・ディフォールの北に位置するクラーウル洞窟。光を知らぬ暗闇の果てに、涙でできた銀水晶があるという。
 バンクール地方に伝わる古い童唄を、偶然耳にしたのが事の始まりだった。
 洞窟に住んでいた2匹の小鬼。1匹は旅立ち、1匹は残される。残された1匹は寂しくて毎日泣き暮らしていた。こぼれた溜め息は小さな雨雲となり、旅立っていった小鬼を探しにいく。そして洞窟の小鬼は心と身体に涙をあふれさせ、やがて銀色に輝く水晶となってしまう――…。
 探しに行こうと云う少年に、若き空賊は肩をすくめて答えた。
 そんなもんを探しにいったら物笑いの種になるだけだと。
 平原に降る俄か雨とヤクト・ディフォールに対する畏敬から生まれた作り話だ。クラーウル洞窟が狭苦しい小さな洞だということを、いまでは誰だって知っている。その奥は何の面白味もない乾いた石灰岩壁が広がるだけだと。
 過去におまえみたいなバカが何人かいて、命がけの骨折り損をしてくれたおかげで証明されている。
ありもしないお宝なんぞ信じるなと空賊は嘲笑った。
 どうして、と少年は真っ直ぐな瞳を上げる。そいつらの云うことを信じて、伝説を作り話と決めつけてしまうのか。
 行ってみなくちゃ判らない。自分の目で確かめないかぎり納得しない。岩壁しかなくても諦めない。何かすれば何かが起こるかもしれない。
 だって、お宝の在処ってそういうもんだろと少年は明るい笑顔を見せる。
 我がまま、生意気、無鉄砲、夢見がちで怖いもの知らず。それらを集めて出来上がった少年を見つめ、空賊はただただ呆れかえるばかりだ。
 深々と息を吐いて面倒だと呟く。皮肉な笑みとともに、からかいの言葉を口にする。少年の必死さを大人のずるさではぐらかす。
 それでも。
 少年が望むすべてを、この空賊は叶えてやるのだ。
 たとえば冬の夜空に白光放つ満月を盗みたいと少年が云ったなら、空賊は涼しい顔でそれを獲りにいくだろう。春の世界中に咲き誇る花々も、夏の灼熱に燃える太陽も、秋の黄金色に染まる風景も、何もかも。
 そして空賊はこの世のどんな財宝よりも欲していた宝を手に入れる。
 憧れにきらめくブルーグレイの双眸。砂漠のくすんだ青空に似た瞳が映すのは空賊ただひとり。腕を伸ばして捉えれば、その胸にすんなり抱きこまれる健やかな肢体。温もり。太陽と風の匂い。
 だが空賊は知らない。
 少年を見つめる眼差しが、あふれんばかりの慈しみに満ちていることを。少年の名を呼ぶ唇が、とろけそうに甘い微笑を浮かべていることを。
 空賊は知らない。
 叶えたつもりが叶えられ、捉えたつもりが囚われてしまったことを。自分こそ何もかも奪われたのだということを。
 その心も身体も、生も死も、空を行く自由な魂さえ――…いまや少年の手中にあることを。

 恋に落ちた空賊の愚かさに、親愛をこめた苦笑が浮かんでしまう。無様なことを何より嫌う男が、この先どんな答えを見出すのか興味深い。
「できたっ」と少女の軽やかな声に物思いから覚めた。
 頭上に掲げられた少女の手には、白い花ばかりを集めて編んだ花冠。ためつすがめつ出来を確認して満足気にうなづく。
 いたずらな目顔でこちらを向き、いそいそと立ち上がって両手を伸ばしてくる。ひんやりと冷たい指が私の耳に触れた。長い耳が丁寧にまとめられ冠の輪に通される。
 ほんのりと甘く清潔な香りが鼻腔をくすぐった。それは花でなく、少女の匂いだ。
 少女はゆっくりと後ずさり、わずかに離れて花冠を頂く私を見つめた。その無垢な眼差しに包まれて、かすかに頬が熱くなるのを感じる。ふいに胸を刺す甘美な痛み。泣きたくなるほどの激しさを何度この少女に抱いただろう。
 その衝動をごまかして小さく首を振った。
「こんな可愛らしいものは似合わないわ」と云えば、少女は少し怒ったように眉をあげる。
「そんなことないです」と目の前に来て座りこんだ。とても似合いますと見上げてくるハニーブラウンの瞳。
 それから花の白と葉や茎の黄緑が、私の褐色の肌と白銀の髪をどれほど引き立てるかを、もどかしげに懸命に伝えてくる。こんな些細なことにすら、少女は精一杯の真心を与えてくれる。
「わかったわ」と私は微笑んでその手を取り、ありがとうの言葉を添えて細く優しい指先にくちづけた。吐息をひそめて想う気持ちを唇に託して。
 私が自分に許した少女の対するただひとつの行為だ。
 恥ずかしそうに頬を染めた少女は、まばたきとともに面を伏せる。顔を見せてほしいと頼めば、困ったようにおずおずと顎をあげ、
 そして――…地上の花々がいっせいにほころぶような笑顔!
 この瞬間に世界中の大気が歓びをあふれさせ、あらゆる祝福が私へと降りそそぐ。どんな欲望も醜さも汚らしさも何もかもが消え去り、あたたかな幸福だけに満たされていく。
 ああ…私は少女の笑顔を守るためならば何でもしよう。
 地を這うような汚辱にまみれようとも、鮮血の海をのたうちまわろうとも構わない。我が身を引き裂かれ、魂ごと地獄の業火に投げこまれても、この誓いを果たせるのならば喜んで受けいれられる。
 そうして命が尽きたとしても、少女は知らないままでいい。何も知らないまま、いつまでも花のように笑っていてくれたなら、それでいい。
 この心も身体も、生も死も、自由に賭けた誇りさえ――…すべて少女に捧げてしまったのだから。
「フランさん?」
 小首をかしげて見つめてくる少女の瞳。その深い蜂蜜色の中に囚われているヴィエラは、なんて穏やかな顔をしているのだろう。
「パンネロ…あなたに似合う花の色を考えていたの」
 その名を呼び語りかける声は、静かな歓喜を含んで甘くとろけそうだ。

 地平まで埋めつくす色とりどりの花々。やわらかな香りがゆるりとした眠気を誘う。降りそそぐ陽光は一片の翳りもなく、時はたおやかに流れゆく。
 私もまた恋に落ちた。
 これでは空賊の愚かさを嗤えやしない。

おわり (2007.03.09)


途中から妙なテンションとなり
修正できないまま突っ走ってしまいました
なんか…ごめんなさい(汗)


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